昭和12年 北茨城 五浦海岸。
第一回文化勲章を受賞した横山大観(中村獅童)は、取材に訪れた新聞記者(石黒賢)から、ある写真を見せられる。そこに写っていたのは、絵筆を取る若き大観と、菱田春草(平山浩行)、下村観山(木下ほうか)、木村武山(橋本一郎)の四人であった。記者に問われるまま、大観は五浦で過ごした青年時代と、師である岡倉天心の生涯に思いをめぐらせていく――。
明治15年。岡倉覚三(大和田健介)とアーネスト・フェノロサ(イアン・ムーア)は、廃仏毀釈の嵐にさらされ、壊滅の危機にある日本の伝統美術を守るため、東奔西走の日々を送っていた。急激な西洋化で困窮に陥った狩野派の絵師・狩野芳崖(温水洋一)の類まれな才能を見出したフェノロサは、芳崖に救いの手を差し伸べ、やがて日本美術史上重要な作品となる《悲母観音》を生み出すことに成功する。
明治23年。東京美術学校(東京藝術大学の前身)の校長に就任した岡倉天心(竹中直人)のもとで、横山大観、菱田春草、 下村観山ら学生は、互いに切磋琢磨し、創作活動に励んでいた。美術界のエリートコースを歩んでいた天心であったが、勢力を増す西洋画派との対立が激化、上司である九鬼男爵(渡辺裕之)の妻・波津子(神楽坂恵)と道ならぬ恋に落ちた天心を中傷する怪文書がばらまかれ、東京美術学校を排斥されて辞職へと追い込まれる。
新たな日本画の創造を目指し東京・谷中に日本美術院を立ち上げるも、彼らの画法に対する国内での評判は芳しくなく、経営難に陥る。
天心は、新天地を求め茨城県の五浦に「六角堂」を建設し、翌年日本美術院も移転。志を共にした大観、春草、観山に武山も加わり、五浦の地で創作活動を開始する。
しかしそれは同時に、新たな日本の美を生み出すための、苦難の日々の始まりでもあった……。
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