法隆寺や興福寺を復興し、東京美術学校、
日本美術院創立に携わったのち、
日本人初のボストン美術館東洋部長に就任。
世界的ベストセラー「茶の本」を著すなど、
日本近代美術の父といわれた岡倉天心。
その華やかな活躍の影には、天心と若き弟子たちとの、
壮絶な葛藤と創作の日々があった。
明治初期。廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、仏寺や伝統美術が失われようとするなか、“アーネスト・フェノロサと岡倉天心”は「日本の美」を救おうと奔走していた。
その後天心は、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の校長に就任。横山大観、菱田春草、下村観山ら若き才能を育成し、美術界のエリートコースを歩んでいたが、西洋画派との対立により辞任。日本美術院を立ち上げるも、天心が提唱し大観、春草らが編み出した新画法が「朦朧体」と揶揄され、次第に苦境へと追い込まれる。新天地を求めた天心は、茨城県五浦に「六角堂」を建て、日本美術院を移転し、新たな日本画の創造を目指し、壮絶なまでの創作活動に没頭していくのであったが…。
100年前に「クールジャパン」を創った男たちの、魂の物語がここに誕生した。