1月7日オンエアーの「出張!なんでも鑑定団in笠間」。
水戸在住の書簡コレクター鈴木さんが出品した、天心と大観の手紙を思文閣の田中大さんが鑑定。
本人評価額は50万円でしたが、果たして結果は!?
【鑑定結果1,001,000円】
『岡倉天心の手紙が100万円、横山大観の手紙が千円。
大観の方は印刷で、昭和12年に大観が文化勲章を受章した際、祝い状のお返しとして大量に刷ったもの。
岡倉天心の方は少し右肩下がりの丸っこい字が特徴。宛先に「黒川殿」とあるが、黒川真頼という東京美術学校の教師のこと。内容は「十月十七日から十二月三十一日までに七十二円四銭六厘を渡す」という当時としては非常に高額な給料のことが書いてある。
開校前で非常に忙しいともあり、あわただしい中、教員の給料について書かれた非常に面白い手紙。』
http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20140107/09.html
「天心」のファーストシーンは昭和12年、文化勲章を受章した横山大観(中村獅童)を茨城新聞記者(石黒賢)が五浦に訪ねる所からです。
大観の書簡は、まさにこの時期に郵送されたものであります。
鑑定額が低い印刷とは言え、むしろ作品が売れず貧苦だった五浦時代を経て、功成り遂げた「昭和の大観」が、どれだけ多くの人々からお祝いされたかの証明ではないでしょうか。
祝い状のお返しを印刷にしたことの背景を想像すると、とても面白いですね。
そして、天心が黒川真頼に宛てた手紙。
黒川は、「竹中天心」が登場する東京美術学校のシーン(明治22年・1889年)から天心や大観、春草、観山らが着用している「校服」のデザイナーです。
「校服」は奈良朝の服装に倣ったものだと言われており、黒川は明治23年に制定された裁判所で用いる法服も考案しています。
これらの制服は、聖徳太子像より考証した古代官服風の冠と闕腋袍から成っており、当時としても異様なものであったそうで、黒川が裁判所に事件の証人として召喚された際には、廷丁に判事と間違えられたという逸話もあるそうです。
この「校服」の制作を黒川に依頼したのは東京美術学校開校に奔走していた文部官僚・岡倉覚三であり、彼が日本の芸術と文化の源流を何処に求めたのか、まことに象徴的なデザインであったと思います。
そして、開校時の校長が浜尾新であるにも関わらず、幹部教員給与の日割計算までも天心が差配していたことがこの書簡からも明らかになりました。
この2通の手紙と映画「天心」とを併せると、想像の翼が限りなく広がります。