岡倉 天心の業績 ~茨城県天心記念五浦美術館HPより~

1.古美術の保存、保護に尽力

 文明開化という時代風潮の中、明治はじめの新政府の神仏分離令によって、廃仏棄釈が盛んになり仏像等の美術品が破壊され、また海外に流出していきました。近畿地方の古社寺を訪れ調査をする中で、古美術に対する造詣を深めていった天心は、そうした日本美術の行く末を憂い古美術の保護に強い関心を持つようになります。特に、明治17年(1884)法隆寺夢殿を開扉し、秘仏であったの救世観音(ぐぜかんのん)像をアーネスト・フェノロサとともに拝した時の驚きと感動を「一生の最快事なりというべし」と熱く語っています。
 同19年(1886)天心が文部省の命により奈良地方の古社寺調査をまとめた報告書「美術保存ニ付意見」は、文化保護について最も早く適切な提案をしたものとして今でも高く評価されています。
 同22年(1889)、天心は帝国博物館理事および美術部長に就任し、全国的な文化財調査、保護活動を本格的に推し進めました。帝国博物館の行った彫刻、古画の模写 ・模造事業をその後東京美術学校が担当し、それに大観ら生徒達が参加しています。さらに天心は日本美術院でも、奈良を本拠地とした国宝修理部門を設け、新納忠之介(にいろちゅうのすけ)らを彫刻の修理や復元事業に当たらせました。天心の発案した「現状維持修理」は、今日の古美術保存の最も適切な修理法として採用されています。
 亡くなる直前まで、病気を押して古社寺保存会に出席し法隆寺壁画保存の建議書を文部省に提出するなど、晩年まで天心の文化財保護に対する情熱は変わりませんでした。
 このような天心の文化財保護に関する綿密な調査活動と優れた見識は、明治30年(1897)公布された「古社寺保存法」に反映されています。また、天心の古美術保存の精神は、昭和4年(1929)の「国宝保存法」、さらに昭和25年(1950) の「文化財保護法」制定へと受け継がれ、今日の文化財保護の礎になっています。

2.新しい日本画の創造

 明治22年(1889)に開校した東京美術学校で天心は、それまでの画塾における粉本(ふんぽん)を模倣する修業方法から脱し、写 生(毛筆による線描と墨等の濃淡で実物の立体感を表現)、臨画(りんが)(線描と濃淡の習得を目指した古画の模写 )、そして新案(しんあん)(山水、花鳥などの課題にもとずいて創意工夫し制作)などの実技教育を取り入れ、近代的な学校教育制度のもとで新しい日本画の創造をめざしました。
  明治31年(1898)東京美術学校騒動により校長職を退いた天心は、日本美術院を創設し、横山大観、下村観山、菱田春草らを率いて、日本画の改革を推し進めていきました。天心の示唆で、大観が「空刷毛(からばけ)を使用して空気、光線などの表現に一つの新しい試みを敢(あ)えてした」というように、日本画の特色のひとつである線を使用しないで西洋画法を積極的に取り入れた没線(もっせん)主彩 による新しい表現を試みて模索します。
 しかし、この作風は一般には理解されず、当時のジャーナリズムにいかさま車夫いわゆる朦朧(もうろう)車夫に由来する蔑称(べっしょう)として「朦朧体」と呼ばれ不評を買いました。
 明治39年(1906)衰退した日本美術院のたて直しを図るため、第一部(絵画)を五浦に移転した天心は、大観、観山、春草、武山を呼び寄せ、再び新たな日本画の創造をめざしました。苦しい生活を強いられながらも大観や春草ら五浦の作家達は、「朦朧体」画法に、天心の示唆する日本の伝統絵画、宗達・光琳(こうりん)の画法を参考にし改良を加え、画面 に明瞭さを取り戻す中で朦朧体の悪評を払拭しました。
 五浦で制作された大観「流燈(りゅうとう)」、観山「木の間の秋」、春草「賢首菩薩(けんじゅぼさつ)」、武山「阿房劫火(あぼうごうか)」などの近代日本画史に残る名作は好評を持って迎えられ、天心の指導のもと個性的な日本画が創造されていきました。

3.東洋文化の欧米への紹介

 明治37年(1904)天心は、セントルイス万国博覧会において「絵画における近代の問題」というテーマで講演をしたり、またボストン美術館でも多くの講演や論文発表をしたりして、欧米人に対する東洋美術や日本文化の啓蒙に努めました。また、 この他にも、『The Book of Tea(茶の本)』をはじめとする英文による著作物を3冊出版しています。
 まず、「Asia is One」で始まる『The Ideals of the East(東洋の理想)』が、天心のインド旅行中に書き上げられ、明治36年にロンドンのジョン・マレー社から、また翌年『The Awakening of Japan(日本の覚醒)』がニューヨークのセンチュリー社から出版されました。これらは、ともに西洋文明に対抗してアジアの連帯と自主というテーマによって貫かれています。
 これに対しニューヨークのフォクス・ダフィールド社から出版された『The Book of Tea(茶の本)』は、茶の歴史、その流儀、道教と禅などの7章から構成され、茶をテーマに日常生活における自然と芸術の調和を説いたもので、日本の文化思想を紹介した著作物として世界的に高い評価を得ました。当時多くの国で翻訳、出版され、東洋・日本文化を知るテキストとして愛読されました。この『茶の本』が岩波文庫により日本語版として我が国に紹介されたのは、昭和4年のことでした。