2月22日(土)・3月19日(水)・3月21日(金・祝)・3月28日(金)の4日間に渡り、大観、春草らの名作を展示する『日本美術院再興100年・世紀の日本画』展を開催中の上野・東京都美術館講堂で「天心」の上映会が催されました。
特に19日と21日は超満員で多くのお客様が入場できなかったため、急遽28日に追加上映を致しました。
ご入場できなかったお客様、本当に申し訳ございません。
心よりお詫び申し上げます。
また、19日は常陸宮両殿下がお見えになり「天心」をご鑑賞いただくという栄誉。
両殿下は、茨城の復興支援のためになれば、というお気持ちからだそうで本当にありがたい限りです。
企画展では芳崖の『悲母観音』や大観の『屈原』など劇中に登場する作品はもちろん、天心の遺産とも言うべき日本美術院が誇る名作の数々が展示。
水戸の近代美術館と同じく、映画と作品の素晴らしいコラボレーションを多くのお客様が堪能されたと思います。
関係者の皆様、本当にありがとうございました!!
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岡倉 天心 ~茨城県天心記念五浦美術館HPより~
岡倉天心(1863-1913)は、急激な西洋化の荒波が押し寄せた明治という時代の中で、日本の伝統美術の優れた価値を認め、美術行政家、美術運動家として近代日本美術の発展に大きな功績を残しました。その活動には、日本画改革運動や古美術品の保存、東京美術学校の創立、ボストン美術館中国・日本美術部長就任など、目を見張るものがあります。また、天心は自筆の英文著作『The Book of Tea(茶の本)』などを通して、東洋や日本の美術・文化を欧米に積極的に紹介するなど、国際的な視野に立って活動しました。
また、天心は晩年、思索と静養の場として太平洋に臨む人里離れた茨城県五浦(現在の北茨城市五浦)に居を構える一方、横山大観ら五浦の作家達を指導し新しい日本画の創造をめざしました。以後、天心は亡くなるまでこの五浦を本拠地として生活することになります。
■生い立ちと修業時代
岡倉天心、本名岡倉覚三(かくぞう)は江戸幕末の文久2年(1863)、元越前福井藩士で生糸の輸出を生業とする石川屋、岡倉勘右衛門(かんえもん)の次男として横浜に生まれました。文明開化という時代、海外に開かれた開港地横浜で、天心はジェイムズ・バラの塾等で英語を学ぶなど、後年の国際的な活躍の素地が磨かれていきました。
明治8年(1875)、東京開成学校に入学し、同10年(1877)には同校が東京大学と改称されるに伴い文学部に籍を移し、お雇い外国人教師アーネスト・フェノロサ(1853-1908)に政治学、理財学(経済学)を学びます。
天心は、日本美術に傾倒したフェノロサの通訳として、行動を共にするようになり古美術への関心を深めます。
■美術行政への参画と古美術の調査
明治13年(1880)東京大学を卒業した天心は、文部省へ就職し草創期の美術行政に携わることになります。同16年(1883)頃から文部少輔九鬼隆一(くきりゅういち)に従い本格的に全国の古社寺調査を行った天心は、日本美術の優秀性を認識すると共に、伝統的日本美術を守っていこうとする眼が開かれていきます。 同19年(1886)フェノロサとともに美術取調委員として欧米各国の美術教育情勢を視察するために出張しました。帰国後の天心は、図画取調掛委員として東京美術学校(現在の東京芸術大学)の開校準備に奔走します。開校後の同23年(1890)、わずか27歳の若さで同校二代目の校長になった天心は、近代国家にふさわしい新しい絵画の創造をめざし、横山大観、下村観山、菱田春草ら気鋭の作家を育てていきました。
■理想の実現に向けて 日本美術院の創立
急進的な日本画改革を進めようとする天心の姿勢は、伝統絵画に固執する人々から激しい反発を受けることになります。特に学校内部の確執に端を発した、いわゆる東京美術学校騒動により、明治31年(1898)校長の職を退いた天心は、その半年後彼に付き従った橋本雅邦(がほう)をはじめとする26名の同志とともに日本美術院を創設しました。
その院舎はアメリカ人ビゲローなどから資金援助を得て、東京上野谷中初音(やなかはつね)町に建設され、美術の研究、制作、展覧会などを行う研究機関として活動を始めました。
横山大観、下村観山、菱田春草らの美術院の青年作家たちは、天心の理想を受け継ぎ、広く世界に目を向けながら、それまでの日本の伝統絵画に西洋画の長所を取り入れた新しい日本画の創造を目指したのです。その創立展には、大観「屈原(くつげん)」、観山「闍維(じゃい)」、春草「武蔵野(むさしの)」などの話題作が出品されました。
■東洋の美と心を世界に 国際人「KAKUZO」
天心の指導を受けた大観や春草ら日本美術院の作家達は、大胆な没線(もっせん)描法を推し進めましたが、その作品は「朦朧体(もうろうたい)」「化物絵」などと激しい非難を浴び、次第に世間には受け入れられなくなりました。こうした中で、院の経営は行き詰まりをみせ、天心の目は次第に海外へと向けられていきます。
明治34年(1901)、インドに渡った天心はヒンズー教の僧スワミ・ヴィヴェカーナンダ(1863-1902)を訪ね、東洋宗教会議について話し合いますが実現には至らず、彼の紹介で出会った詩人ラビンドラナート・タゴール(1861-1941)やその一族と親交を深めました。また、インド各地の仏教遺跡などを巡り、東洋文化の源流を自ら確かめた天心は、滞在中に『The Ideals of the East(東洋の理想)』を書き上げています。
同37年(1904)、アメリカに渡った天心は、ボストン美術館の中国・日本美術部に迎えられ、東洋美術品の整理や目録作成を行い、また、ボストン社交界のクイーンと呼ばれた、大富豪イザベラ・ガードナー夫人と親交を深めることになります。一方天心に従って渡航した横山大観、菱田春草らは、ニューヨークをはじめ各地で展覧会を開き好評を博しました。また、天心は講演会や英文の著作「The Book of Tea(茶の本)」などを通して日本や東洋の文化を欧米に紹介しました。その後、天心は五浦とボストンを往復する生活を送ることになりました。
■新たなる飛躍の地「五浦」
明治36年(1903)茨城県北茨城出身の日本画家飛田周山の案内により五浦を訪れた天心は、太平洋に臨む人里離れた景勝地を気に入り、土地と家屋を買い求めました。同38年六角堂と邸宅を新築、拡張するなど、以後五浦を本拠地とします。
一方、日本美術院は、天心や横山大観など主要作家の海外旅行による長期不在が重なるなどにより経営難に陥り、その活動も衰退したため、同39年(1906)、天心は日本美術院の再建を図りました。それまでの美術院を改組し、その第一部(絵画)を五浦に移転しました。天心はここを「東洋のバルビゾン」と称して新しい日本画の創造をめざし、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山を呼び寄せました。
生活上の苦境に耐えながらも大観ら五浦の作家達は、それまで不評を買った「朦朧体」に改良を加え、同40年(1907)に発足した文部省主催の展覧会(文展)に、近代日本画史に残る名作を発表していきました。
■晩年
晩年の天心は、ボストン美術館において中国、インド、日本での美術品収集を精力的に行うほか、日本や東洋の美術を欧米に紹介する著作や講演の仕事をこなしました。明治43年(1910)には同美術館の中国・日本美術部長に就任しています。 大正元年(1912)夏、ボストンに向かった天心は途中インドで、詩人ラビンドラナート・タゴールの親戚 にあたる女流詩人プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジー(1871-1935)と出会います。以後二人の間にラブレターともいえる往復書簡が天心の亡くなるまでの1年間交わされました。 同2年(1913)体調がすぐれずアメリカから帰国した天心は、一旦五浦に戻った後、静養のため新潟県赤倉に移りましたが、病状が悪化し、9月2日、50歳の生涯を閉じました。東京染井(そめい)墓地に葬られるとともに、五浦にも分骨されました。
岡倉 天心の業績 ~茨城県天心記念五浦美術館HPより~
1.古美術の保存、保護に尽力
文明開化という時代風潮の中、明治はじめの新政府の神仏分離令によって、廃仏棄釈が盛んになり仏像等の美術品が破壊され、また海外に流出していきました。近畿地方の古社寺を訪れ調査をする中で、古美術に対する造詣を深めていった天心は、そうした日本美術の行く末を憂い古美術の保護に強い関心を持つようになります。特に、明治17年(1884)法隆寺夢殿を開扉し、秘仏であったの救世観音(ぐぜかんのん)像をアーネスト・フェノロサとともに拝した時の驚きと感動を「一生の最快事なりというべし」と熱く語っています。
同19年(1886)天心が文部省の命により奈良地方の古社寺調査をまとめた報告書「美術保存ニ付意見」は、文化保護について最も早く適切な提案をしたものとして今でも高く評価されています。
同22年(1889)、天心は帝国博物館理事および美術部長に就任し、全国的な文化財調査、保護活動を本格的に推し進めました。帝国博物館の行った彫刻、古画の模写 ・模造事業をその後東京美術学校が担当し、それに大観ら生徒達が参加しています。さらに天心は日本美術院でも、奈良を本拠地とした国宝修理部門を設け、新納忠之介(にいろちゅうのすけ)らを彫刻の修理や復元事業に当たらせました。天心の発案した「現状維持修理」は、今日の古美術保存の最も適切な修理法として採用されています。
亡くなる直前まで、病気を押して古社寺保存会に出席し法隆寺壁画保存の建議書を文部省に提出するなど、晩年まで天心の文化財保護に対する情熱は変わりませんでした。
このような天心の文化財保護に関する綿密な調査活動と優れた見識は、明治30年(1897)公布された「古社寺保存法」に反映されています。また、天心の古美術保存の精神は、昭和4年(1929)の「国宝保存法」、さらに昭和25年(1950) の「文化財保護法」制定へと受け継がれ、今日の文化財保護の礎になっています。
2.新しい日本画の創造
明治22年(1889)に開校した東京美術学校で天心は、それまでの画塾における粉本(ふんぽん)を模倣する修業方法から脱し、写 生(毛筆による線描と墨等の濃淡で実物の立体感を表現)、臨画(りんが)(線描と濃淡の習得を目指した古画の模写 )、そして新案(しんあん)(山水、花鳥などの課題にもとずいて創意工夫し制作)などの実技教育を取り入れ、近代的な学校教育制度のもとで新しい日本画の創造をめざしました。
明治31年(1898)東京美術学校騒動により校長職を退いた天心は、日本美術院を創設し、横山大観、下村観山、菱田春草らを率いて、日本画の改革を推し進めていきました。天心の示唆で、大観が「空刷毛(からばけ)を使用して空気、光線などの表現に一つの新しい試みを敢(あ)えてした」というように、日本画の特色のひとつである線を使用しないで西洋画法を積極的に取り入れた没線(もっせん)主彩 による新しい表現を試みて模索します。
しかし、この作風は一般には理解されず、当時のジャーナリズムにいかさま車夫いわゆる朦朧(もうろう)車夫に由来する蔑称(べっしょう)として「朦朧体」と呼ばれ不評を買いました。
明治39年(1906)衰退した日本美術院のたて直しを図るため、第一部(絵画)を五浦に移転した天心は、大観、観山、春草、武山を呼び寄せ、再び新たな日本画の創造をめざしました。苦しい生活を強いられながらも大観や春草ら五浦の作家達は、「朦朧体」画法に、天心の示唆する日本の伝統絵画、宗達・光琳(こうりん)の画法を参考にし改良を加え、画面 に明瞭さを取り戻す中で朦朧体の悪評を払拭しました。
五浦で制作された大観「流燈(りゅうとう)」、観山「木の間の秋」、春草「賢首菩薩(けんじゅぼさつ)」、武山「阿房劫火(あぼうごうか)」などの近代日本画史に残る名作は好評を持って迎えられ、天心の指導のもと個性的な日本画が創造されていきました。
3.東洋文化の欧米への紹介
明治37年(1904)天心は、セントルイス万国博覧会において「絵画における近代の問題」というテーマで講演をしたり、またボストン美術館でも多くの講演や論文発表をしたりして、欧米人に対する東洋美術や日本文化の啓蒙に努めました。また、 この他にも、『The Book of Tea(茶の本)』をはじめとする英文による著作物を3冊出版しています。
まず、「Asia is One」で始まる『The Ideals of the East(東洋の理想)』が、天心のインド旅行中に書き上げられ、明治36年にロンドンのジョン・マレー社から、また翌年『The Awakening of Japan(日本の覚醒)』がニューヨークのセンチュリー社から出版されました。これらは、ともに西洋文明に対抗してアジアの連帯と自主というテーマによって貫かれています。
これに対しニューヨークのフォクス・ダフィールド社から出版された『The Book of Tea(茶の本)』は、茶の歴史、その流儀、道教と禅などの7章から構成され、茶をテーマに日常生活における自然と芸術の調和を説いたもので、日本の文化思想を紹介した著作物として世界的に高い評価を得ました。当時多くの国で翻訳、出版され、東洋・日本文化を知るテキストとして愛読されました。この『茶の本』が岩波文庫により日本語版として我が国に紹介されたのは、昭和4年のことでした。