(満年齢) | ||||
1863 文久2 | 0歳 | 横浜に生まれる | ||
1869 明治2 | 6歳 | このころ英語を学ぶ | ||
1875 明治8 | 12歳 | 東京開成学校(のち東京大学と改称)に入学する | ||
1879 明治12 | 16歳 | 大岡もと(のち基子と称す)と結婚する | ||
1880 明治13 | 17歳 | 東京大学を卒業し、文部省に勤務する | ||
1886 明治19 | 23歳 | 欧米の美術視察にアーネスト・フェノロサらと共に出張する | ||
1889 明治22 | 26歳 | 東京美術学校が開校し、翌年校長となる | ||
1893 明治26 | 30歳 | 美術調査で初めて中国を旅行する | ||
1898 明治31 | 35歳 | 東京美術学校校長の職を退き日本美術院を創立する | ||
1901 明治34 | 38歳 | インドに渡り、翌年にかけて仏跡を巡る | ||
1902 明治35 | 39歳 | インドの詩人タゴールと交流を深める | ||
1903 明治36 | 40歳 | 『The Ideals of the East(東洋の理想)』ロンドンで出版する 五浦に土地と家屋を求める |
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1904 明治37 | 41歳 | アメリカのボストン美術館中国・日本美術部に入る 『The Awakening of Japan(日本の覚醒)』をニューヨークで出版する |
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1905 明治38 | 42歳 | 五浦の別荘を新築し、六角堂を建てる | ||
1906 明治39 | 43歳 | 日本美術院第一部(絵画)の五浦移転に伴い、大観、観山、春草、武山が同地に移り住む 『The Book of Tea (茶の本)』をニューヨークで出版する |
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1907 明治40 | 44歳 | 仲秋観月の園遊会を五浦で開く | ||
1910 明治43 | 47歳 | ボストン美術館中国・日本美術部長になる | ||
1912 明治45 | 49歳 | ボストン美術館の用務でアメリカへ渡る途中、インドに立寄り、女流詩人プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジーと出会う | ||
1913 大正2 | 50歳 | オペラ台本『The White Fox(白狐)』を執筆後、病気のため帰国する 古社寺保存会に出席し、法隆寺金堂壁画の保存について建議案を作成する 療養のため新潟県の赤倉に移るが病状が悪化し、没する |
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1914 大正3 | 日本美術院が再興される |
「年表」カテゴリーアーカイブ
岡倉 天心(おかくらてんしん) ~茨城大学五浦美術文化研究所より~
文久2年(1862)福井藩士岡倉覚右衛門の二男として横浜に生まれる。幼名覚蔵。
明治13年(1880)東京大学文学部卒業。
明治23年(1890)より東京美術学校校長。
明治31年(1898)東京美術学校校長を非職となる。橋本雅邦らと日本美術院を設立。
明治37年(1904)渡米してボストン美術館の仕事に携わり、以後日本、中国、インドの美術作品購入と、整理保存に尽力。同美術館顧問および中国日本美術部長として、中国日本美術部の中にインド部門を加える必要を説いた。
明治38年(1905)二年前に購入した五浦の土地に邸宅と六角堂を建てる。
明治39年(1906)日本美術院の絵画部を五浦に移転。
大正2年(1913)9月2日、赤倉にて没。享年50歳。
主著に『東洋の理想』(1903)、『日本の覚醒』(1904)、『茶の本』(1906)。
この写真は、ボストン美術館に於いて撮影したものである。
横山 大観(よこやまたいかん) ~茨城大学五浦美術文化研究所より~
同22年(1889)、東京美術学校開学と同時に入学、橋本雅邦に師事する。
同26年第一期生として同校卒業後古画の模写 に力を入れる。
明治29年の第一回日本絵画協会共進会に『寂静』を出品,初めて「大観」の号を用いる。
明治30年、東京美術学校助教授となるが、翌年の美術学校騒動に際しては辞職組の最先鋒の一人として春草とともに同校を免職となり、天心にしたがって日本美術学院展に『屈原』を出品し、歴史画論争で話題を呼んだ。線を抑えて空気を光の描写を試みた彼の作品は、当時「朦朧体」と非難されたが、日本近代化の斬新な実験をして次代へ受け継がれた。
明治39年日本美術学院の五浦移転にしたがい五浦で『流燈』などを発表した。天心の没後は再興美術院の中心的存在として活躍。『生々流転』、『夜桜』などの傑作を生みだした。
昭和12年(1937)に文化勲章受章。
同33年没。
現在大観の生家として旧酒井家が史跡指定されている。
菱田 春草(ひしだしゅんそう) ~茨城大学五浦美術文化研究所より~
明治21年(1888)上京し、結城正明に日本画を学ぶ。同23年東京美術学校普通科に入学。
同25年本科に編入し、同27年、天心の勧めで川端玉章に師事する。
同29年、第一回日本絵画協会共進会で銅牌を受賞、」「春艸」と号した。のち「春草」と改める。
同31年の美術学校騒動に際し、天心と行動をともにして日本美術院創立に参加。古典を研究する一方で、西洋絵画の色彩 表現などもとり入れて没線描法を試みるなど、天心が理想とした日本画の新しい表現を追求し、『落葉』に代表されるような斬新な構図と写実的描写による名作を残した。彼の没線描法は同様の描法を試みていた大観とともに「朦朧体」と評された。
明治39年日本美術院の五浦移転に際し、大観等と行動をともにし、『賢首菩薩』などの名作を発表した。
同41年病のため帰京、同44年38歳の若さで没した。
下村 観山(しもむらかんざん) ~茨城大学五浦美術文化研究所より~
木村 武山(きむらぶざん) ~茨城大学五浦美術文化研究所より~
明治23年(1890)上京し、開成中学に入学、同時に川端玉 章に師事する。
同24年東京美術学校に入学。
同29年卒業後は岡倉天心が率いる日本絵画協会に参加した。
明治39年日本美術院の五浦移転に際し、下村観山の勧めで大観、草春等と行動をともにする。
同40年第一回文展の『阿房劫火』、同43年第四回文展の『孔雀王』でともに三等賞となった。
大正3年(1914)の日本美術院再興以降は同人として参加し、再興第一回展には『小春』を出品した。
その画風は特に色彩 感覚にすぐれ、写実的な描写力と古典を学んだ素養を生かして、大正初年頃までは歴史画に、その後は花鳥画に見るべきものが多い。
晩年は仏画を多く描いて高野山金剛峰寺金堂壁画等も担当している。
昭和17年11月没。