年表  ~茨城県天心記念五浦美術館HPより~

(満年齢)    
1863 文久2 0歳   横浜に生まれる
1869 明治2 6歳   このころ英語を学ぶ
1875 明治8 12歳   東京開成学校(のち東京大学と改称)に入学する
1879 明治12 16歳   大岡もと(のち基子と称す)と結婚する
1880 明治13 17歳   東京大学を卒業し、文部省に勤務する
1886 明治19 23歳   欧米の美術視察にアーネスト・フェノロサらと共に出張する
1889 明治22 26歳   東京美術学校が開校し、翌年校長となる
1893 明治26 30歳   美術調査で初めて中国を旅行する
1898 明治31 35歳   東京美術学校校長の職を退き日本美術院を創立する
1901 明治34 38歳   インドに渡り、翌年にかけて仏跡を巡る
1902 明治35 39歳   インドの詩人タゴールと交流を深める
1903 明治36 40歳   『The Ideals of the East(東洋の理想)』ロンドンで出版する
五浦に土地と家屋を求める
1904 明治37 41歳   アメリカのボストン美術館中国・日本美術部に入る
『The Awakening of Japan(日本の覚醒)』をニューヨークで出版する
1905 明治38 42歳   五浦の別荘を新築し、六角堂を建てる
1906 明治39 43歳   日本美術院第一部(絵画)の五浦移転に伴い、大観、観山、春草、武山が同地に移り住む
『The Book of Tea (茶の本)』をニューヨークで出版する
1907 明治40 44歳   仲秋観月の園遊会を五浦で開く
1910 明治43 47歳   ボストン美術館中国・日本美術部長になる
1912 明治45 49歳   ボストン美術館の用務でアメリカへ渡る途中、インドに立寄り、女流詩人プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジーと出会う
1913 大正2 50歳   オペラ台本『The White Fox(白狐)』を執筆後、病気のため帰国する
古社寺保存会に出席し、法隆寺金堂壁画の保存について建議案を作成する
療養のため新潟県の赤倉に移るが病状が悪化し、没する
1914 大正3     日本美術院が再興される

岡倉 天心 ~茨城県天心記念五浦美術館HPより~

岡倉天心(1863-1913)は、急激な西洋化の荒波が押し寄せた明治という時代の中で、日本の伝統美術の優れた価値を認め、美術行政家、美術運動家として近代日本美術の発展に大きな功績を残しました。その活動には、日本画改革運動や古美術品の保存、東京美術学校の創立、ボストン美術館中国・日本美術部長就任など、目を見張るものがあります。また、天心は自筆の英文著作『The Book of Tea(茶の本)』などを通して、東洋や日本の美術・文化を欧米に積極的に紹介するなど、国際的な視野に立って活動しました。
  また、天心は晩年、思索と静養の場として太平洋に臨む人里離れた茨城県五浦(現在の北茨城市五浦)に居を構える一方、横山大観ら五浦の作家達を指導し新しい日本画の創造をめざしました。以後、天心は亡くなるまでこの五浦を本拠地として生活することになります。

■生い立ちと修業時代

 岡倉天心、本名岡倉覚三(かくぞう)は江戸幕末の文久2年(1863)、元越前福井藩士で生糸の輸出を生業とする石川屋、岡倉勘右衛門(かんえもん)の次男として横浜に生まれました。文明開化という時代、海外に開かれた開港地横浜で、天心はジェイムズ・バラの塾等で英語を学ぶなど、後年の国際的な活躍の素地が磨かれていきました。
 明治8年(1875)、東京開成学校に入学し、同10年(1877)には同校が東京大学と改称されるに伴い文学部に籍を移し、お雇い外国人教師アーネスト・フェノロサ(1853-1908)に政治学、理財学(経済学)を学びます。
 天心は、日本美術に傾倒したフェノロサの通訳として、行動を共にするようになり古美術への関心を深めます。

■美術行政への参画と古美術の調査

 明治13年(1880)東京大学を卒業した天心は、文部省へ就職し草創期の美術行政に携わることになります。同16年(1883)頃から文部少輔九鬼隆一(くきりゅういち)に従い本格的に全国の古社寺調査を行った天心は、日本美術の優秀性を認識すると共に、伝統的日本美術を守っていこうとする眼が開かれていきます。  同19年(1886)フェノロサとともに美術取調委員として欧米各国の美術教育情勢を視察するために出張しました。帰国後の天心は、図画取調掛委員として東京美術学校(現在の東京芸術大学)の開校準備に奔走します。開校後の同23年(1890)、わずか27歳の若さで同校二代目の校長になった天心は、近代国家にふさわしい新しい絵画の創造をめざし、横山大観、下村観山、菱田春草ら気鋭の作家を育てていきました。

■理想の実現に向けて  日本美術院の創立

 急進的な日本画改革を進めようとする天心の姿勢は、伝統絵画に固執する人々から激しい反発を受けることになります。特に学校内部の確執に端を発した、いわゆる東京美術学校騒動により、明治31年(1898)校長の職を退いた天心は、その半年後彼に付き従った橋本雅邦(がほう)をはじめとする26名の同志とともに日本美術院を創設しました。
 その院舎はアメリカ人ビゲローなどから資金援助を得て、東京上野谷中初音(やなかはつね)町に建設され、美術の研究、制作、展覧会などを行う研究機関として活動を始めました。
 横山大観、下村観山、菱田春草らの美術院の青年作家たちは、天心の理想を受け継ぎ、広く世界に目を向けながら、それまでの日本の伝統絵画に西洋画の長所を取り入れた新しい日本画の創造を目指したのです。その創立展には、大観「屈原(くつげん)」、観山「闍維(じゃい)」、春草「武蔵野(むさしの)」などの話題作が出品されました。

■東洋の美と心を世界に 国際人「KAKUZO」

 天心の指導を受けた大観や春草ら日本美術院の作家達は、大胆な没線(もっせん)描法を推し進めましたが、その作品は「朦朧体(もうろうたい)」「化物絵」などと激しい非難を浴び、次第に世間には受け入れられなくなりました。こうした中で、院の経営は行き詰まりをみせ、天心の目は次第に海外へと向けられていきます。
 明治34年(1901)、インドに渡った天心はヒンズー教の僧スワミ・ヴィヴェカーナンダ(1863-1902)を訪ね、東洋宗教会議について話し合いますが実現には至らず、彼の紹介で出会った詩人ラビンドラナート・タゴール(1861-1941)やその一族と親交を深めました。また、インド各地の仏教遺跡などを巡り、東洋文化の源流を自ら確かめた天心は、滞在中に『The Ideals of the East(東洋の理想)』を書き上げています。
 同37年(1904)、アメリカに渡った天心は、ボストン美術館の中国・日本美術部に迎えられ、東洋美術品の整理や目録作成を行い、また、ボストン社交界のクイーンと呼ばれた、大富豪イザベラ・ガードナー夫人と親交を深めることになります。一方天心に従って渡航した横山大観、菱田春草らは、ニューヨークをはじめ各地で展覧会を開き好評を博しました。また、天心は講演会や英文の著作「The Book of Tea(茶の本)」などを通して日本や東洋の文化を欧米に紹介しました。その後、天心は五浦とボストンを往復する生活を送ることになりました。

■新たなる飛躍の地「五浦」

 明治36年(1903)茨城県北茨城出身の日本画家飛田周山の案内により五浦を訪れた天心は、太平洋に臨む人里離れた景勝地を気に入り、土地と家屋を買い求めました。同38年六角堂と邸宅を新築、拡張するなど、以後五浦を本拠地とします。
 一方、日本美術院は、天心や横山大観など主要作家の海外旅行による長期不在が重なるなどにより経営難に陥り、その活動も衰退したため、同39年(1906)、天心は日本美術院の再建を図りました。それまでの美術院を改組し、その第一部(絵画)を五浦に移転しました。天心はここを「東洋のバルビゾン」と称して新しい日本画の創造をめざし、横山大観下村観山菱田春草木村武山を呼び寄せました。
 生活上の苦境に耐えながらも大観ら五浦の作家達は、それまで不評を買った「朦朧体」に改良を加え、同40年(1907)に発足した文部省主催の展覧会(文展)に、近代日本画史に残る名作を発表していきました。

■晩年

 晩年の天心は、ボストン美術館において中国、インド、日本での美術品収集を精力的に行うほか、日本や東洋の美術を欧米に紹介する著作や講演の仕事をこなしました。明治43年(1910)には同美術館の中国・日本美術部長に就任しています。 大正元年(1912)夏、ボストンに向かった天心は途中インドで、詩人ラビンドラナート・タゴールの親戚 にあたる女流詩人プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジー(1871-1935)と出会います。以後二人の間にラブレターともいえる往復書簡が天心の亡くなるまでの1年間交わされました。 同2年(1913)体調がすぐれずアメリカから帰国した天心は、一旦五浦に戻った後、静養のため新潟県赤倉に移りましたが、病状が悪化し、9月2日、50歳の生涯を閉じました。東京染井(そめい)墓地に葬られるとともに、五浦にも分骨されました。

復興状況  ~茨城大学五浦美術文化研究所六角堂 復興計画より~

平成23年3月11日に発生した「東北地方太平洋沖地震」に伴う「大津波」により、日本美術院を創設した思想家の岡倉天心(本名:覚三 1863~1913年)が明治38年に建設した「五浦の六角堂」(国登録有形文化財)は、10メートル近い津波により、土台だけを残して流失致してしました。

六角堂の復興は、以下のような基本方針と経過のもとに進められています。
六角堂の復興の他に天心邸、長屋門の修復も行っています。さらに、地域振興のため日本美術院研究所の再建や、今回の大震災と津波を後世に伝えるために、海底調査によって引き上げられた品々や、復興までの記録を展示する復興記念館の建設を視野に入れ、六角堂を中心とした五浦地区全体の復興を計画しています。

六角堂再建の基本方針
1、六角堂は明治38年の創建当初の姿の復元を目指す。
 2、瓦は、昭和38年の改修工事で新しく葺き替えられたが、明治38年当時の桟瓦(8寸幅)で復元する。
 3、昭和38年の改修で変更された南側の出窓は、記録等を検討して当初のものに戻す。
 4、昭和38年の改修で撤去された中央の六角形の炉を再現する。
 5、土台の分析から、当初の外観を復元する。
 6、窓ガラスは、当時の製法による再現を試みる。
 7、建物全体の彩色は、明治38年当時のベンガラ彩色を研究して実施する。
 8、土台の分析から、石垣は当初、茨城産の石灰岩の平詰みだったことが判明した。
 9、露盤の宝珠は創建当初のものと推定されるが、破損が激しいため3Dスキャンにより当初の形態を復元し、その後実寸模型を作成し、完 成させる。

 

 6月 6日 第1回六角堂海底捜索
 6月14日 第2回六角堂海底捜索
 6月20日 第3回六角堂海底捜索
 7月 7日 第1回茨城大学と茨城県建築士会との再建合同会議
 7月20日 第2回茨城大学と茨城県建築士会との再建合同会議
 8月 1日 六角堂の測量を開始
 8月 6日 水戸黄門まつりにて、六角堂の復興をアピール
 8月 9日 六角堂基礎解体工事開始
 8月22日 第3回茨城大学と茨城県建築士会との再建合同会議
 9月13日 第4回茨城大学と茨城県建築士会との再建合同会議
 9月15日 第4回六角堂海底捜索
 10月14日 六角堂地盤調査
11月 2日 第5回茨城大学と茨城建築士会との再建合同会議
11月15日 立木(原木)の伐採
 11月15日 原木の葉枯らし乾燥(11月15日~1月16日)
 11月18日 工事契約締結(松井リフォーム(株))
 11月21日 起工式
 12月 7日 六角堂等復旧工事会議を実施
1月14日 六角堂建設位置測量
1月17日 いわき市山林で原木の玉切り
  1月17日 いわき市山林から五浦海岸へ原木の搬出
 1月17日 原木の乾燥(1月17日~2月6日)
  1月19日 長屋門入口養生塀に復興プロジェクトポスター設置
 1月21日 千波湖畔で「天心・六角堂復興パネル展」が開催(1月21日~3月31日)
 1月27日 六角堂瓦材搬入
 1月31日 六角堂原寸検査(千葉県君津市)
2月 2日 六角堂基礎コンクリート打設
 2月 6日 原木移動(五浦海岸から製材工場へ)
 2月 8日 木材製材(2月8日~2月13日)
 2月15日 造作材人工乾燥(2月15日~2月28日)
 3月 3日 木材加工(3月3日~3月24日)
 3月 6日 鬼瓦と宝珠が搬入
 3月12日 基礎外壁石張り開始
 3月19日 基礎外壁石張り終了(明治38年創建時の石張りを再現する)
 3月21日 工場ベンガラ塗装(3月21日~3月22日)
 3月25日 木製建具工場製作(3月25日~4月9日)
 3月26日 外部足場架け
 3月27日 軸組建方(3月27日~3月28日)
 3月27日 上棟式
 3月28日 六角堂棟札が搬入
 3月30日 内外部造作(3月30日~4月7日)
 4月 2日 瓦葺き(4月2日~4月11日)
 4月 6日 木羽葺き(4月6日~4月12日)
 4月 6日 内壁漆喰(4月6日~4月10日)
 4月 8日 外部ベンガラ塗装(4月8日~4月13日)
 4月12日 ガラスはめ込み
 4月13日 木羽葺保護塗
 4月13日 外部足場解体
 4月16日 引渡し
 4月17日   六角堂竣工式
 4月には「創建時に限りなく近い姿」の六角堂が、
 復興のシンボルとして五浦の海を目前に颯爽と蘇る予定です。

岡倉 天心(おかくらてんしん) ~茨城大学五浦美術文化研究所より~

岡倉天心

文久2年(1862)福井藩士岡倉覚右衛門の二男として横浜に生まれる。幼名覚蔵。
明治13年(1880)東京大学文学部卒業。
明治23年(1890)より東京美術学校校長。
明治31年(1898)東京美術学校校長を非職となる。橋本雅邦らと日本美術院を設立。
明治37年(1904)渡米してボストン美術館の仕事に携わり、以後日本、中国、インドの美術作品購入と、整理保存に尽力。同美術館顧問および中国日本美術部長として、中国日本美術部の中にインド部門を加える必要を説いた。
明治38年(1905)二年前に購入した五浦の土地に邸宅と六角堂を建てる。
明治39年(1906)日本美術院の絵画部を五浦に移転。
大正2年(1913)9月2日、赤倉にて没。享年50歳。

主著に『東洋の理想』(1903)、『日本の覚醒』(1904)、『茶の本』(1906)。
この写真は、ボストン美術館に於いて撮影したものである。

横山 大観(よこやまたいかん) ~茨城大学五浦美術文化研究所より~

横山大観明治元年9月茨城県水戸市に生まれる。本名秀麿。

同22年(1889)、東京美術学校開学と同時に入学、橋本雅邦に師事する。
同26年第一期生として同校卒業後古画の模写 に力を入れる。
明治29年の第一回日本絵画協会共進会に『寂静』を出品,初めて「大観」の号を用いる。
明治30年、東京美術学校助教授となるが、翌年の美術学校騒動に際しては辞職組の最先鋒の一人として春草とともに同校を免職となり、天心にしたがって日本美術学院展に『屈原』を出品し、歴史画論争で話題を呼んだ。線を抑えて空気を光の描写を試みた彼の作品は、当時「朦朧体」と非難されたが、日本近代化の斬新な実験をして次代へ受け継がれた。

明治39年日本美術学院の五浦移転にしたがい五浦で『流燈』などを発表した。天心の没後は再興美術院の中心的存在として活躍。『生々流転』、『夜桜』などの傑作を生みだした。
昭和12年(1937)に文化勲章受章。
同33年没。

現在大観の生家として旧酒井家が史跡指定されている。

菱田 春草(ひしだしゅんそう) ~茨城大学五浦美術文化研究所より~

菱田春草明治7年9月長野県飯田市に生まれる。本名三男治。

明治21年(1888)上京し、結城正明に日本画を学ぶ。同23年東京美術学校普通科に入学。
同25年本科に編入し、同27年、天心の勧めで川端玉章に師事する。
同29年、第一回日本絵画協会共進会で銅牌を受賞、」「春艸」と号した。のち「春草」と改める。
同31年の美術学校騒動に際し、天心と行動をともにして日本美術院創立に参加。古典を研究する一方で、西洋絵画の色彩 表現などもとり入れて没線描法を試みるなど、天心が理想とした日本画の新しい表現を追求し、『落葉』に代表されるような斬新な構図と写実的描写による名作を残した。彼の没線描法は同様の描法を試みていた大観とともに「朦朧体」と評された。

明治39年日本美術院の五浦移転に際し、大観等と行動をともにし、『賢首菩薩』などの名作を発表した。
同41年病のため帰京、同44年38歳の若さで没した。

下村 観山(しもむらかんざん) ~茨城大学五浦美術文化研究所より~

下村観山下村観山(本名晴三郎)は、明治6年和歌山市に生まれた。

狩野芳崖、橋本雅邦に師事し、東京美術学校卒業後直ちに母校助教授となった。
岡倉天心に殉じて美術学校を辞職し、日本美術院創立には正員として参加、新日本画の創造に尽くした。
英国に留学して水彩画の研究を行い、日本画古典の各派の研究とあわせ、高雅な作風を示した。
東京美術学校に教授として戻り、また日本美術院の再興にも尽力した。帝室技芸員となった。
代表作には「木の間の秋」「大原御幸」「弱法師」(重要文化財)などがある。

昭和5年没。

木村 武山(きむらぶざん) ~茨城大学五浦美術文化研究所より~

木村武山明治9年7月茨城県笠間市に生まれる。本名信太郎。

明治23年(1890)上京し、開成中学に入学、同時に川端玉 章に師事する。
同24年東京美術学校に入学。
同29年卒業後は岡倉天心が率いる日本絵画協会に参加した。

明治39年日本美術院の五浦移転に際し、下村観山の勧めで大観、草春等と行動をともにする。
同40年第一回文展の『阿房劫火』、同43年第四回文展の『孔雀王』でともに三等賞となった。

 

大正3年(1914)の日本美術院再興以降は同人として参加し、再興第一回展には『小春』を出品した。
その画風は特に色彩 感覚にすぐれ、写実的な描写力と古典を学んだ素養を生かして、大正初年頃までは歴史画に、その後は花鳥画に見るべきものが多い。
晩年は仏画を多く描いて高野山金剛峰寺金堂壁画等も担当している。

昭和17年11月没。

岡倉 天心の業績 ~茨城県天心記念五浦美術館HPより~

1.古美術の保存、保護に尽力

 文明開化という時代風潮の中、明治はじめの新政府の神仏分離令によって、廃仏棄釈が盛んになり仏像等の美術品が破壊され、また海外に流出していきました。近畿地方の古社寺を訪れ調査をする中で、古美術に対する造詣を深めていった天心は、そうした日本美術の行く末を憂い古美術の保護に強い関心を持つようになります。特に、明治17年(1884)法隆寺夢殿を開扉し、秘仏であったの救世観音(ぐぜかんのん)像をアーネスト・フェノロサとともに拝した時の驚きと感動を「一生の最快事なりというべし」と熱く語っています。
 同19年(1886)天心が文部省の命により奈良地方の古社寺調査をまとめた報告書「美術保存ニ付意見」は、文化保護について最も早く適切な提案をしたものとして今でも高く評価されています。
 同22年(1889)、天心は帝国博物館理事および美術部長に就任し、全国的な文化財調査、保護活動を本格的に推し進めました。帝国博物館の行った彫刻、古画の模写 ・模造事業をその後東京美術学校が担当し、それに大観ら生徒達が参加しています。さらに天心は日本美術院でも、奈良を本拠地とした国宝修理部門を設け、新納忠之介(にいろちゅうのすけ)らを彫刻の修理や復元事業に当たらせました。天心の発案した「現状維持修理」は、今日の古美術保存の最も適切な修理法として採用されています。
 亡くなる直前まで、病気を押して古社寺保存会に出席し法隆寺壁画保存の建議書を文部省に提出するなど、晩年まで天心の文化財保護に対する情熱は変わりませんでした。
 このような天心の文化財保護に関する綿密な調査活動と優れた見識は、明治30年(1897)公布された「古社寺保存法」に反映されています。また、天心の古美術保存の精神は、昭和4年(1929)の「国宝保存法」、さらに昭和25年(1950) の「文化財保護法」制定へと受け継がれ、今日の文化財保護の礎になっています。

2.新しい日本画の創造

 明治22年(1889)に開校した東京美術学校で天心は、それまでの画塾における粉本(ふんぽん)を模倣する修業方法から脱し、写 生(毛筆による線描と墨等の濃淡で実物の立体感を表現)、臨画(りんが)(線描と濃淡の習得を目指した古画の模写 )、そして新案(しんあん)(山水、花鳥などの課題にもとずいて創意工夫し制作)などの実技教育を取り入れ、近代的な学校教育制度のもとで新しい日本画の創造をめざしました。
  明治31年(1898)東京美術学校騒動により校長職を退いた天心は、日本美術院を創設し、横山大観、下村観山、菱田春草らを率いて、日本画の改革を推し進めていきました。天心の示唆で、大観が「空刷毛(からばけ)を使用して空気、光線などの表現に一つの新しい試みを敢(あ)えてした」というように、日本画の特色のひとつである線を使用しないで西洋画法を積極的に取り入れた没線(もっせん)主彩 による新しい表現を試みて模索します。
 しかし、この作風は一般には理解されず、当時のジャーナリズムにいかさま車夫いわゆる朦朧(もうろう)車夫に由来する蔑称(べっしょう)として「朦朧体」と呼ばれ不評を買いました。
 明治39年(1906)衰退した日本美術院のたて直しを図るため、第一部(絵画)を五浦に移転した天心は、大観、観山、春草、武山を呼び寄せ、再び新たな日本画の創造をめざしました。苦しい生活を強いられながらも大観や春草ら五浦の作家達は、「朦朧体」画法に、天心の示唆する日本の伝統絵画、宗達・光琳(こうりん)の画法を参考にし改良を加え、画面 に明瞭さを取り戻す中で朦朧体の悪評を払拭しました。
 五浦で制作された大観「流燈(りゅうとう)」、観山「木の間の秋」、春草「賢首菩薩(けんじゅぼさつ)」、武山「阿房劫火(あぼうごうか)」などの近代日本画史に残る名作は好評を持って迎えられ、天心の指導のもと個性的な日本画が創造されていきました。

3.東洋文化の欧米への紹介

 明治37年(1904)天心は、セントルイス万国博覧会において「絵画における近代の問題」というテーマで講演をしたり、またボストン美術館でも多くの講演や論文発表をしたりして、欧米人に対する東洋美術や日本文化の啓蒙に努めました。また、 この他にも、『The Book of Tea(茶の本)』をはじめとする英文による著作物を3冊出版しています。
 まず、「Asia is One」で始まる『The Ideals of the East(東洋の理想)』が、天心のインド旅行中に書き上げられ、明治36年にロンドンのジョン・マレー社から、また翌年『The Awakening of Japan(日本の覚醒)』がニューヨークのセンチュリー社から出版されました。これらは、ともに西洋文明に対抗してアジアの連帯と自主というテーマによって貫かれています。
 これに対しニューヨークのフォクス・ダフィールド社から出版された『The Book of Tea(茶の本)』は、茶の歴史、その流儀、道教と禅などの7章から構成され、茶をテーマに日常生活における自然と芸術の調和を説いたもので、日本の文化思想を紹介した著作物として世界的に高い評価を得ました。当時多くの国で翻訳、出版され、東洋・日本文化を知るテキストとして愛読されました。この『茶の本』が岩波文庫により日本語版として我が国に紹介されたのは、昭和4年のことでした。

4月15日(日) あの素晴らしいゲストと・・・・!

 東海村の高齢者施設にて、素晴らしいゲストと対面!あの「笑点」の座布団で有名な山田隆夫さんと会いました。この日は慰問に訪れ、笑点の座布団を施設のお年寄りさんたちにプレゼント。笑点でおなじみの色紋付姿で颯爽と登場され、涙あり、笑いありの軽妙トークを披露して、会場は大賑わい!


 山田さんといえば、僕らの世代には、野郎にも人気あった、珍しい男子アイドル「ずうとるび」のメンバー。そして、邦画史上に残る傑作「最後の早慶戦」「キネマの天地」さらには、あのスピルバーグの戦争超大作「太陽の帝国」にも出た名優です。どれも軽妙で、滑稽で、しかし彼にしか出せないペーソスあふれる人物リアリティもあって、実に良かった。特に、「キネマの・・・」の照明技師の役は、昔の古き良き活動屋気質を見事に体現され、秀逸でした。
 山田さんを紹介してくれたのは、私の友人であり、自宅周辺の谷中の飲み仲間の仙若さん。江戸太神楽の曲芸の名手でありながら、俳優の顔も持つ多芸な人。私が桜舞う谷中を舞台に撮った、乱歩原案の短編幻想ファンタジー映画の主役もしてくれました。
 この日は、山田さんらと食事をし、映画の裏話に花が咲き、大変楽しいひととき。しかも山田さんから「映画『天心』で、お座敷などでの座布団運びのシーンがあったら喜んでやります」の言葉が!有難うございます!もう少し違う役で(笑)一考します。それには、いつもと同じになるが、まず実現が・・・