復興支援映画 岡倉天心をテーマとした映画「天心」

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石井竜也氏発案の缶バッヂ

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価格:1個300円(税込)

 24からこの3日間、またまた水戸へ。23日のNHK放映の反響が予想以上に大きく、放映直後に、さっそく協賛申込みが相次ぎました。本当に感謝、深謝です!
映画関係の友人からも数々応援メールが!中には撮影協力のギャラを不要と言ってくれた映画ライターの永田さん、励ましの一献を約してくれた元名画座の名物支配人の小野さんなど、感謝しきり・・・
 自分は今まで、ドキュメンタリー番組で数えきれないほど多くの人の取材をしてきましたが、自分をここまで密着取材されたのは初めて。正直、不安と恥ずかしさいっぱいで、客観的に観られないが、おおむね好評で一安心。
次回はぜひ、ETVの映画「天心」特集番組を!

 ついに「天心」クランクイン!と言いたい所ですが、この日は北茨城の六角堂の実景を先行撮影。前日に完成したばかりで竣工式を迎えた六角堂。その翌日にロケを敢行しました。ただし、実景だけではなく、下記のように大工姿の男衆が!一体、なぜ?!

 実は、今回の六角堂の再建に併せ、創建当時に天心が見たであろうシーンとして完成直後の姿を撮影したのです。津波によって消失したものの、管理する茨城大学さんのプロジェクトで見事に再建された六角堂。昭和にかなり改修されていた建物を、創建当時の明治のころに復興したのです。

 約100年後に訪れた、奇跡的な偶然。そこで、私たちもこの偶然をキャメラに収めたい・・・と撮影を決行。これも偶然か、明治38年のちょうど同じ春に建築された六角堂。時を約100年前にさかのぼらせて、平潟の船大工さんたちに登場してもらったのです。ちなみに、演じてくれたのは特命教授の三輪先生はじめ茨城大学六角堂復興プロジェクトのみなさん。

 プロデューサーと私でキャスティング。皆、明治男の凛々しさ、溌剌さをもった面々で、ナチュラルに熱演してくれました。「地元の人は天心を東京の偉い先生と敬いながらも怖れていた。美術院には近寄りがたかったという地元の人の証言もある。天心が現場を見ている設定なので、和気藹々の楽しい雰囲気ではなく、緊張気味の真面目な表情でやってもらいたい」と私が指導。

 さらにこの日は、現場を指揮する松井リフォームの佐藤監督と小林造園の小林社長、それに建築担当の日本木工染谷社長が全面協力。染谷社長は年代ものの貴重な半纏を用意してくれたばかりか、撮影のために作業も中断。小林社長は、見学コースの柵を抜き、近辺の木々の剪定もしてくれ、大工衣装の着方、鉢巻の絞め方、道具箱の持ち方なども指導。
 近くの五浦観光ホテルさんは撮影用に部屋を提供してくれるなど、地元の熱気あふれる応援が本当に嬉しかった・・・天気も素晴らしく、宝珠が生き生きと輝き、まさに完成間近の六角堂が出現したような映像が撮れました。

 当日は「波山」の撮影、芦澤明子さんと、美術の池谷仙克さんも立ち会い現場はスムーズ。私は池谷さんとは初仕事。鈴木清順、寺山修司、実相寺昭雄、篠田正浩ら、錚々たる監督たちの名作を手掛けられた巨匠。しかし、大変和やかで、的確かつ、臨機応変に、六角堂の扉や道具箱などの細工をあっという間にこなす職人技。
 この初日で、相当な手ごたえを感じた。これは絶対、実現しなければならない!言葉だけでなく、必ずや・・・・

 
 なお、この様子をNHK水戸の放送局が取材してくれました。半月前ぐらいから、私や現場を密着取材。嬉しいことに最初は水戸放送局の予定が、NHK総合の関東エリアで放映してくれることに・・・
 緊急告知にもあるように、4月23日(月)の夕方6:00~7:00の「首都圏ネットワーク」という番組で6、7分の特集コーナーで紹介されるそうです。ぜひ見てください!

23日(月)18:00~NHK総合「首都圏ネットワーク」で、映画「天心」実現に向けて奔走する松村監督を追跡したルポが放映される予定です。ご覧いただければ幸いです。

尚、他のニュースが入った場合は、放送日時が変更となりますことを予めご理解ください。

この日は常総市役所、坂東市役所と県西を回りました。いずれも市長が会ってくれ、大変丁重に対応いただき光栄の限り。何と、坂東市の吉原市長より「100口の協賛」をいただきました!

県内の市町村では初めてCMを製作していただけることに。市のイベントや名所、特産品などを紹介する内容で、案内役も同市出身の注目株!若手女優を起用します。完成すれば、本映画HPでも、市のHPでも配信予定ですので、乞うご期待ください!それにしても、数々の市町村を回り、ようやく実現したCM。吉原市長は映画や演劇、イベントなど文化的な事業で町おこしをして  行こうとされる、大変有難い方。それは常総市の女性市長、長谷川市長も同じで、本当に心から感謝申し上げます。

「うどん県」の次は、茨城を「映画県」にしたい!下記画像の前Pこと前山プロデューサーと夢は実現に向けて広がります。

 

 

 

 

 

(真ん中:吉原市長 左:前P)

 

なお、この日の様子をNHK水戸放送局が取材してくれました。6~7分の特集で紹介してくれるそうで、水戸での放送だと思ったら、夕方6時から放映のNHK総合「首都圏ネットワーク」で放映してくれるそうです!放映日は今月下旬を予定で、確定したら、大々的に(笑)本HPで発表します。

僕自身はさんざんドキュメンタリーなどの番組で、いろんな人を紹介してきたが、自分自身を特集で紹介してくれるのは実は初めて。恥ずかしさと戸惑いもあるけど、そんな感情はもはやどうでもいい。「天心」を広く告知できるのなら僕で良ければ、何でもするつもり・・・

 4月15日、第22回かすみがうらマラソン兼国際盲人マラソンかすみがうら大会が土浦、かすみがうら両市内の霞ケ浦湖畔日本陸連公認コースであり、埼玉県庁の公務員ランナー・川内優輝さんら過去最高の2万1815人が参加しました。
 映画「天心」も専用ブースを設置していただき、缶バッジ販売や映画の宣伝でボランティアスタッフの方々に大いに助けられました。
 昨年の第21回大会は東日本大震災の影響で中止。開催は2年ぶりですが、復興の光になったのではないかと思います。

 

(満年齢)    
1863 文久2 0歳   横浜に生まれる
1869 明治2 6歳   このころ英語を学ぶ
1875 明治8 12歳   東京開成学校(のち東京大学と改称)に入学する
1879 明治12 16歳   大岡もと(のち基子と称す)と結婚する
1880 明治13 17歳   東京大学を卒業し、文部省に勤務する
1886 明治19 23歳   欧米の美術視察にアーネスト・フェノロサらと共に出張する
1889 明治22 26歳   東京美術学校が開校し、翌年校長となる
1893 明治26 30歳   美術調査で初めて中国を旅行する
1898 明治31 35歳   東京美術学校校長の職を退き日本美術院を創立する
1901 明治34 38歳   インドに渡り、翌年にかけて仏跡を巡る
1902 明治35 39歳   インドの詩人タゴールと交流を深める
1903 明治36 40歳   『The Ideals of the East(東洋の理想)』ロンドンで出版する
五浦に土地と家屋を求める
1904 明治37 41歳   アメリカのボストン美術館中国・日本美術部に入る
『The Awakening of Japan(日本の覚醒)』をニューヨークで出版する
1905 明治38 42歳   五浦の別荘を新築し、六角堂を建てる
1906 明治39 43歳   日本美術院第一部(絵画)の五浦移転に伴い、大観、観山、春草、武山が同地に移り住む
『The Book of Tea (茶の本)』をニューヨークで出版する
1907 明治40 44歳   仲秋観月の園遊会を五浦で開く
1910 明治43 47歳   ボストン美術館中国・日本美術部長になる
1912 明治45 49歳   ボストン美術館の用務でアメリカへ渡る途中、インドに立寄り、女流詩人プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジーと出会う
1913 大正2 50歳   オペラ台本『The White Fox(白狐)』を執筆後、病気のため帰国する
古社寺保存会に出席し、法隆寺金堂壁画の保存について建議案を作成する
療養のため新潟県の赤倉に移るが病状が悪化し、没する
1914 大正3     日本美術院が再興される

岡倉天心(1863-1913)は、急激な西洋化の荒波が押し寄せた明治という時代の中で、日本の伝統美術の優れた価値を認め、美術行政家、美術運動家として近代日本美術の発展に大きな功績を残しました。その活動には、日本画改革運動や古美術品の保存、東京美術学校の創立、ボストン美術館中国・日本美術部長就任など、目を見張るものがあります。また、天心は自筆の英文著作『The Book of Tea(茶の本)』などを通して、東洋や日本の美術・文化を欧米に積極的に紹介するなど、国際的な視野に立って活動しました。
  また、天心は晩年、思索と静養の場として太平洋に臨む人里離れた茨城県五浦(現在の北茨城市五浦)に居を構える一方、横山大観ら五浦の作家達を指導し新しい日本画の創造をめざしました。以後、天心は亡くなるまでこの五浦を本拠地として生活することになります。

■生い立ちと修業時代

 岡倉天心、本名岡倉覚三(かくぞう)は江戸幕末の文久2年(1863)、元越前福井藩士で生糸の輸出を生業とする石川屋、岡倉勘右衛門(かんえもん)の次男として横浜に生まれました。文明開化という時代、海外に開かれた開港地横浜で、天心はジェイムズ・バラの塾等で英語を学ぶなど、後年の国際的な活躍の素地が磨かれていきました。
 明治8年(1875)、東京開成学校に入学し、同10年(1877)には同校が東京大学と改称されるに伴い文学部に籍を移し、お雇い外国人教師アーネスト・フェノロサ(1853-1908)に政治学、理財学(経済学)を学びます。
 天心は、日本美術に傾倒したフェノロサの通訳として、行動を共にするようになり古美術への関心を深めます。

■美術行政への参画と古美術の調査

 明治13年(1880)東京大学を卒業した天心は、文部省へ就職し草創期の美術行政に携わることになります。同16年(1883)頃から文部少輔九鬼隆一(くきりゅういち)に従い本格的に全国の古社寺調査を行った天心は、日本美術の優秀性を認識すると共に、伝統的日本美術を守っていこうとする眼が開かれていきます。  同19年(1886)フェノロサとともに美術取調委員として欧米各国の美術教育情勢を視察するために出張しました。帰国後の天心は、図画取調掛委員として東京美術学校(現在の東京芸術大学)の開校準備に奔走します。開校後の同23年(1890)、わずか27歳の若さで同校二代目の校長になった天心は、近代国家にふさわしい新しい絵画の創造をめざし、横山大観、下村観山、菱田春草ら気鋭の作家を育てていきました。

■理想の実現に向けて  日本美術院の創立

 急進的な日本画改革を進めようとする天心の姿勢は、伝統絵画に固執する人々から激しい反発を受けることになります。特に学校内部の確執に端を発した、いわゆる東京美術学校騒動により、明治31年(1898)校長の職を退いた天心は、その半年後彼に付き従った橋本雅邦(がほう)をはじめとする26名の同志とともに日本美術院を創設しました。
 その院舎はアメリカ人ビゲローなどから資金援助を得て、東京上野谷中初音(やなかはつね)町に建設され、美術の研究、制作、展覧会などを行う研究機関として活動を始めました。
 横山大観、下村観山、菱田春草らの美術院の青年作家たちは、天心の理想を受け継ぎ、広く世界に目を向けながら、それまでの日本の伝統絵画に西洋画の長所を取り入れた新しい日本画の創造を目指したのです。その創立展には、大観「屈原(くつげん)」、観山「闍維(じゃい)」、春草「武蔵野(むさしの)」などの話題作が出品されました。

■東洋の美と心を世界に 国際人「KAKUZO」

 天心の指導を受けた大観や春草ら日本美術院の作家達は、大胆な没線(もっせん)描法を推し進めましたが、その作品は「朦朧体(もうろうたい)」「化物絵」などと激しい非難を浴び、次第に世間には受け入れられなくなりました。こうした中で、院の経営は行き詰まりをみせ、天心の目は次第に海外へと向けられていきます。
 明治34年(1901)、インドに渡った天心はヒンズー教の僧スワミ・ヴィヴェカーナンダ(1863-1902)を訪ね、東洋宗教会議について話し合いますが実現には至らず、彼の紹介で出会った詩人ラビンドラナート・タゴール(1861-1941)やその一族と親交を深めました。また、インド各地の仏教遺跡などを巡り、東洋文化の源流を自ら確かめた天心は、滞在中に『The Ideals of the East(東洋の理想)』を書き上げています。
 同37年(1904)、アメリカに渡った天心は、ボストン美術館の中国・日本美術部に迎えられ、東洋美術品の整理や目録作成を行い、また、ボストン社交界のクイーンと呼ばれた、大富豪イザベラ・ガードナー夫人と親交を深めることになります。一方天心に従って渡航した横山大観、菱田春草らは、ニューヨークをはじめ各地で展覧会を開き好評を博しました。また、天心は講演会や英文の著作「The Book of Tea(茶の本)」などを通して日本や東洋の文化を欧米に紹介しました。その後、天心は五浦とボストンを往復する生活を送ることになりました。

■新たなる飛躍の地「五浦」

 明治36年(1903)茨城県北茨城出身の日本画家飛田周山の案内により五浦を訪れた天心は、太平洋に臨む人里離れた景勝地を気に入り、土地と家屋を買い求めました。同38年六角堂と邸宅を新築、拡張するなど、以後五浦を本拠地とします。
 一方、日本美術院は、天心や横山大観など主要作家の海外旅行による長期不在が重なるなどにより経営難に陥り、その活動も衰退したため、同39年(1906)、天心は日本美術院の再建を図りました。それまでの美術院を改組し、その第一部(絵画)を五浦に移転しました。天心はここを「東洋のバルビゾン」と称して新しい日本画の創造をめざし、横山大観下村観山菱田春草木村武山を呼び寄せました。
 生活上の苦境に耐えながらも大観ら五浦の作家達は、それまで不評を買った「朦朧体」に改良を加え、同40年(1907)に発足した文部省主催の展覧会(文展)に、近代日本画史に残る名作を発表していきました。

■晩年

 晩年の天心は、ボストン美術館において中国、インド、日本での美術品収集を精力的に行うほか、日本や東洋の美術を欧米に紹介する著作や講演の仕事をこなしました。明治43年(1910)には同美術館の中国・日本美術部長に就任しています。 大正元年(1912)夏、ボストンに向かった天心は途中インドで、詩人ラビンドラナート・タゴールの親戚 にあたる女流詩人プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジー(1871-1935)と出会います。以後二人の間にラブレターともいえる往復書簡が天心の亡くなるまでの1年間交わされました。 同2年(1913)体調がすぐれずアメリカから帰国した天心は、一旦五浦に戻った後、静養のため新潟県赤倉に移りましたが、病状が悪化し、9月2日、50歳の生涯を閉じました。東京染井(そめい)墓地に葬られるとともに、五浦にも分骨されました。

平成23年3月11日に発生した「東北地方太平洋沖地震」に伴う「大津波」により、日本美術院を創設した思想家の岡倉天心(本名:覚三 1863~1913年)が明治38年に建設した「五浦の六角堂」(国登録有形文化財)は、10メートル近い津波により、土台だけを残して流失致してしました。

六角堂の復興は、以下のような基本方針と経過のもとに進められています。
六角堂の復興の他に天心邸、長屋門の修復も行っています。さらに、地域振興のため日本美術院研究所の再建や、今回の大震災と津波を後世に伝えるために、海底調査によって引き上げられた品々や、復興までの記録を展示する復興記念館の建設を視野に入れ、六角堂を中心とした五浦地区全体の復興を計画しています。

六角堂再建の基本方針
1、六角堂は明治38年の創建当初の姿の復元を目指す。
 2、瓦は、昭和38年の改修工事で新しく葺き替えられたが、明治38年当時の桟瓦(8寸幅)で復元する。
 3、昭和38年の改修で変更された南側の出窓は、記録等を検討して当初のものに戻す。
 4、昭和38年の改修で撤去された中央の六角形の炉を再現する。
 5、土台の分析から、当初の外観を復元する。
 6、窓ガラスは、当時の製法による再現を試みる。
 7、建物全体の彩色は、明治38年当時のベンガラ彩色を研究して実施する。
 8、土台の分析から、石垣は当初、茨城産の石灰岩の平詰みだったことが判明した。
 9、露盤の宝珠は創建当初のものと推定されるが、破損が激しいため3Dスキャンにより当初の形態を復元し、その後実寸模型を作成し、完 成させる。

 

 6月 6日 第1回六角堂海底捜索
 6月14日 第2回六角堂海底捜索
 6月20日 第3回六角堂海底捜索
 7月 7日 第1回茨城大学と茨城県建築士会との再建合同会議
 7月20日 第2回茨城大学と茨城県建築士会との再建合同会議
 8月 1日 六角堂の測量を開始
 8月 6日 水戸黄門まつりにて、六角堂の復興をアピール
 8月 9日 六角堂基礎解体工事開始
 8月22日 第3回茨城大学と茨城県建築士会との再建合同会議
 9月13日 第4回茨城大学と茨城県建築士会との再建合同会議
 9月15日 第4回六角堂海底捜索
 10月14日 六角堂地盤調査
11月 2日 第5回茨城大学と茨城建築士会との再建合同会議
11月15日 立木(原木)の伐採
 11月15日 原木の葉枯らし乾燥(11月15日~1月16日)
 11月18日 工事契約締結(松井リフォーム(株))
 11月21日 起工式
 12月 7日 六角堂等復旧工事会議を実施
1月14日 六角堂建設位置測量
1月17日 いわき市山林で原木の玉切り
  1月17日 いわき市山林から五浦海岸へ原木の搬出
 1月17日 原木の乾燥(1月17日~2月6日)
  1月19日 長屋門入口養生塀に復興プロジェクトポスター設置
 1月21日 千波湖畔で「天心・六角堂復興パネル展」が開催(1月21日~3月31日)
 1月27日 六角堂瓦材搬入
 1月31日 六角堂原寸検査(千葉県君津市)
2月 2日 六角堂基礎コンクリート打設
 2月 6日 原木移動(五浦海岸から製材工場へ)
 2月 8日 木材製材(2月8日~2月13日)
 2月15日 造作材人工乾燥(2月15日~2月28日)
 3月 3日 木材加工(3月3日~3月24日)
 3月 6日 鬼瓦と宝珠が搬入
 3月12日 基礎外壁石張り開始
 3月19日 基礎外壁石張り終了(明治38年創建時の石張りを再現する)
 3月21日 工場ベンガラ塗装(3月21日~3月22日)
 3月25日 木製建具工場製作(3月25日~4月9日)
 3月26日 外部足場架け
 3月27日 軸組建方(3月27日~3月28日)
 3月27日 上棟式
 3月28日 六角堂棟札が搬入
 3月30日 内外部造作(3月30日~4月7日)
 4月 2日 瓦葺き(4月2日~4月11日)
 4月 6日 木羽葺き(4月6日~4月12日)
 4月 6日 内壁漆喰(4月6日~4月10日)
 4月 8日 外部ベンガラ塗装(4月8日~4月13日)
 4月12日 ガラスはめ込み
 4月13日 木羽葺保護塗
 4月13日 外部足場解体
 4月16日 引渡し
 4月17日   六角堂竣工式
 4月には「創建時に限りなく近い姿」の六角堂が、
 復興のシンボルとして五浦の海を目前に颯爽と蘇る予定です。

岡倉天心

文久2年(1862)福井藩士岡倉覚右衛門の二男として横浜に生まれる。幼名覚蔵。
明治13年(1880)東京大学文学部卒業。
明治23年(1890)より東京美術学校校長。
明治31年(1898)東京美術学校校長を非職となる。橋本雅邦らと日本美術院を設立。
明治37年(1904)渡米してボストン美術館の仕事に携わり、以後日本、中国、インドの美術作品購入と、整理保存に尽力。同美術館顧問および中国日本美術部長として、中国日本美術部の中にインド部門を加える必要を説いた。
明治38年(1905)二年前に購入した五浦の土地に邸宅と六角堂を建てる。
明治39年(1906)日本美術院の絵画部を五浦に移転。
大正2年(1913)9月2日、赤倉にて没。享年50歳。

主著に『東洋の理想』(1903)、『日本の覚醒』(1904)、『茶の本』(1906)。
この写真は、ボストン美術館に於いて撮影したものである。

横山大観明治元年9月茨城県水戸市に生まれる。本名秀麿。

同22年(1889)、東京美術学校開学と同時に入学、橋本雅邦に師事する。
同26年第一期生として同校卒業後古画の模写 に力を入れる。
明治29年の第一回日本絵画協会共進会に『寂静』を出品,初めて「大観」の号を用いる。
明治30年、東京美術学校助教授となるが、翌年の美術学校騒動に際しては辞職組の最先鋒の一人として春草とともに同校を免職となり、天心にしたがって日本美術学院展に『屈原』を出品し、歴史画論争で話題を呼んだ。線を抑えて空気を光の描写を試みた彼の作品は、当時「朦朧体」と非難されたが、日本近代化の斬新な実験をして次代へ受け継がれた。

明治39年日本美術学院の五浦移転にしたがい五浦で『流燈』などを発表した。天心の没後は再興美術院の中心的存在として活躍。『生々流転』、『夜桜』などの傑作を生みだした。
昭和12年(1937)に文化勲章受章。
同33年没。

現在大観の生家として旧酒井家が史跡指定されている。